相澤義和氏インタビュー記事(日本語訳)を公開します。

以下はこちらの相澤義和氏インタビュー記事・日本語訳です。
相澤氏の許諾を得て掲載致します。

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Q.
まずはじめに、あなたの作品のメインテーマである女性の身体について。
あなたの作品の中でもどのような役割(位置づけ)にあって、どのような意味が込められていますか?  またこれらの着眼点はどこからきていますか?

A.
私は世の中が女性を基盤として回っていると思っています。
私のこれまでの人生経験から思うに、どのカテゴリにおいても、表面的であれ内面的であれすべての決定権を女性が持っていて、男性たちは広い意味でその女性の判断基準によって動いているように感じています。
たとえミニマムな生活風景においても私のすべての作品を集約するとそこにたどり着きます。私は常日頃、恋人を含め友人の女性の行動や感情の変化を観察し、その変化を記録しています。
私が想像し生み出せるものなど、女性から生まれる発想や思考に比べると非常に価値の低いものであると自覚しています。ですから私自身のクリエイティブではなく、私は女性の感情や行動を追いかけ、美しいと純粋に感じることを記録したものが私がすることのできる最大限の写真表現だと思うのです。

Q.
日本でのエロス写真文化において、主に参考にしたものは何ですか?

A.
それほど勉強したわけではありませんが、浮世絵や、道に落ちていたエロチックな本などは心の片隅にあるかもしれません。
多感な少年時代に心が動いたことは、年齢を重ねても心が動くと思っています。
そしていろいろな場所で言っていますが、写真家の荒木経惟氏には多大な影響を受けました。ある一方で荒木さんの写真表現は極めて女性蔑視で暴力的であるという見方が未だに根強く残っていますが、私の受け止め方はその逆で、彼の写真や言葉には女性の自由を誰よりも尊重していることが現れています。
彼が表現する女性への愛の形は、私なりに解釈した形で私が女性にカメラを向ける際に影響があることは否定できません。

Q.
あなたの作風に影響した写真以外の視覚的芸術は何ですか?

A.
一般的な視覚的芸術から影響を受けたということはあまりないかもしれません。私は常に女性が自らの姿を提示して生きることを芸術だと感じています。
もっとも大事なのはこれまで私の目の前に存在してくれている女性たちの生の姿です。
目の前の女性とコミュニーケションを取る中で学んできたことが私の中ではもっとも多く影響を受けています。
現代美術家の会田誠氏の個展は足を運んでいますし、図録や小説も読んでいます。とても好きな芸術家ですが、私の作風に影響がどういった形で及んでいるかはあまり考えたことはありません。

Q.
あなたは40歳をまわったところから写真に対して熱心に身を捧げるようになったと聞きますが、きっかけは何だったのでしょうか。

A.
私は29歳でフリーランスの商業写真家として独立しました。40代になるまでの約10年間は与えられた仕事をこなしていくことに必死でした。その10年間も発表こそしませんでしたが、パーソナルワークは少しですが残してきました。しかしそれらを発表する情熱はほとんどなかったのです。
しかし30代の後半に私自身の加齢や身近な友人、親族たちの死を目の当たりにしていき、徐々に「私」を世に残していくことを強く思うようになりました。
私の周りの環境、存在してくれている人たちの姿を残すことで「私」がある意味で半永久的に残るかもしれないと思うようになりました。
そのタイミングで初期のインスタグラムに掲載していた恋人に出会いました。彼女はとても自由で賢く、私がただカメラを向けてシャッターを押すだけで不思議と魅力的で豊かな瞬間が写りました。特別な技術を用いずに感情の変化を記録していくことがとても有意義なものになりました。それまではプロフェッショナルな技術こそが写真には重要であるという考え方が私の中に強く存在していましたが、感情のまま記録したときにとても美しいものが写っていることを確信しました。
私はその女性と、ある時期の生活をともにしたことで写真の解釈の幅が大きく拡がり、熱心に写真を世に残すことを思うようになったのです。

Q.
あなたにとって写真と芸術表現の意味は何ですか?

A.
少なくとも私の写真においては、写真表現自体は芸術だとは思っていません。
写している対象はとても美しく芸術的だと思いますが、写真はあくまで記録媒体であると考えています。私の固定観念や利己的表現を可能な限り排除し、記録に徹することができた時に、その写真に芸術としての価値を見出す人が現れる可能性があるのではないかと思います。

Q.
作品の被写体の選び方と、彼女らとはどのような関係性を築いていますか?

A.
被写体を選ぶことと、撮った写真を選ぶことは作品を残す過程の中で私の最大のエゴイズムとして存在しています。
しかし被写体を選ぶ行為については明確な基準はありません。感覚的に撮りたいと思った人を撮っています。強いて言えば継続的に撮り続けるために、人として関係性を長期的に築けるような人が理想です。
彼女たちは非常に頭が良く感性が豊かで洞察力がとても優れている女性です。彼女たちは自分の魅力をすでに把握していながら常に新しい魅力を見つけ出し、自分を高めていくことにどん欲です。そこに対して私もひとりの人間としての視点を提示し続け、誠実に協力しないといけません。
彼女たちは自分にカメラを向けられている最中、撮影者である私の行動や表情、言葉から様々な情報を極めて多くそして繊細に得ています。それらのコミュニケーションを重ねていく中で予期せぬ魅力的な表情やナチュラルな行動が生まれていきます。私はその瞬間を逃さないように観察とコミュニケーションそしてシャッターを同時にしています。
とても難しいことなのですが、私の写真家としての意志のみが優先されて、モデルの女性の尊厳を潰さないように心がけています。
私が生きる上で女性は絶対的に必要です。特に私に身も心も捧げてくれる女性には私も献身的にそのすべての姿を残したいと思っています。

Q.
一種のフェティシズムのようなものが関係して女性の身体の中で際立って好きなところはありますか?

A.
個々の女性によって大きく異なります。
あまり私自身特別なフェティシズムは持ち合わせていないかもしれませんが、強いて言うなら目の動きと唇です。
私個人の欲望からくるフェティシズムは女性の魅力としてとても重要に作用するものではありますが、それはときに女性の自由を奪うことにもなります。そうならないように撮影の際には私個人のフェティシズムを優先することはできるだけしないようにしています。
私の恋人もそうなのですが、顔は世間に出したくないけど、身体は出したいという女性はとても多いです。身体のパーツを写している写真が多いのはそういった女性個人の意思を尊重した結果であり、必ずしも身体を写すことを優先してできた作品ではありません。

Q.
あなたの作品から、センセーショナルな強い感情や場所だったりリアリティが伝わってきます。 一枚一枚の作品の背景には、どれだけのエネルギーを費やしていますか?

A.
当然のことながらエネルギーを費やせば良い作品になるわけではありません。
その一枚が撮れるまでに、振り返ってみると出会ってから数年を要したということもありますが、出会ってすぐに素晴らしい一枚が撮れてしまうこともあります。
大事なことは、私自身が「これが良い写真である」という固定観念を常に破壊することです。新しい価値観を常に探り、女性の感情を見逃さないように集中力を維持する必要があるため、撮影が終わるととても疲労します。リアリティは作画的な演出要素を排除することで生まれると確信しています。いまのところ、事前に「こういう写真を撮りたい」とテーマや構図等を細かく決めないことでそこにリアリティが発生する確率が高くなり、それが可能になっています。
私のテーマより遥かに大事なことが彼女たちの感情で、それを可能な限り優先することで、彼女たちのより輝いた美しい姿が残ると思います。
彼女たちの姿を私の稚拙なテーマで汚すことはしたくないのです。

Q.
作品を表面的な見方をする人たちからは誤解された解釈をされることもあると思います。このことについてどう思いますか?

A.
人はある写真を観て自分の知識や想像を超える範囲内での解釈できません。
私が写真にキャプションを添えないのは、見る人に対して解釈の方向性をつけたくないからです。
なので、当然まったく私が想像もしていなかったり、そこにはない事実があるような解釈をされたりすることはあります。
しかしそれも写真の楽しみ方のひとつであり、可能性が広がっていくことだと思います。当初は写っている女性は誤解されることを嫌がるかもしれないと思うこともありましたが、私が撮っている女性たちはそういった閲覧者からの誤解を含め、様々な解釈がひろがることを楽しんでいるようです。
私の人間性や写真を下品に捉える人がいることは極めて当然のことだと思います。
しかし我々は日々生きています。生きることは時に激しく動物的で、非文化的であったりします。
私はそれらの姿をとても美しいと思うのですが、それを下品で、目を背けたいという高貴で清潔な人がいて、それが一般論となっていることも把握しています。

Q.
このテーマは実際の社会においても同じことが見られます。 はっきりとした民主主義と表現の自由とはまったく裏腹に美学のイメージを巨大なカテゴリーにグループ分けし、勝手な検閲を採用して芸術分野にまことに残念な影響を与えています。 あなたの経験と、このことについてどう思うか教えてください。

A.
私の知る限りですが、これまでの歴史で、表現が本当の意味で自由だったことはありません。自由を謳いながらも常に政治的、もしくは社会通年上のなにかしらの規制があり、解釈の差はあれど、みなその範囲で表現してきたと思います。その規制があることで新たに人を惹きつける表現を生み出してきたというのもまた事実です。しかしながら現状の一部のソーシャルメディアにおける検閲はかなり強引で公平性に欠ける排除方法を採用していると感じます。
これらの検閲は私個人を排除する一方で、私の写真を自己表現の場として活用してきた女性のことも無視し、排除しています。
私は今、この勝手な検閲を受けている人間だと思います。私はもう歳を重ねていますので、今さらこの扱いをされたからと強い憎しみは生まれませんが、この扱いを若い頃に受けていたら憎しみが溢れていたと思います。現状、各方面でこういったストレスが蓄積し、憎しみの連鎖が始まっているように感じることもあります。それが今以上の反動を伴う問題にならないよう、それぞれが他人を尊重し合うシステムが完成することを願うばかりです。
私は他人を抑え込むことを好ましく思いません。

Q.
今現在何のテーマ(作品)に取り組んでいますか?

A.
現在は母親を主に撮っています。現在74歳でまだまだ元気ですが、私を産み落としてくれた偉大な人ですから、その姿は残していく必要があります。今現在それらの作品をどういった形に発展し、どのように発表するかはまだわかりませんが、私がもっとも長期的に追いかけ手をかけた作品となっていると思います。
他にはこれまで撮ってきた恋人を筆頭に、友人女性を継続的に記録していくことです。人間関係を継続的に記録するというのは簡単そうでとても難しいことです。
それができれば私自身大きく人間的に成長できると思っています。
そこにはおおげさなテーマはありません。私に見せてくれる人たちの表情すべてが作品となると確信しています。

Q.
あなたに「女性」とは何か、と聞いたら何と答えてくれますか?

A.
私の人生における指針です。
母親からはじまり、過去に出会った女性はすべて私に私の歩むべき道を教えてくれてきました。

この度はインタビューの機会を与えてくれてありがとう。遅くなってしまったことにお詫びいたします。

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